油日神社で中世の香りに包まれる

土日に仕事が続いたため、平日に休日を設け、ずっと行きたかった油日神社と甲賀歴史民俗資料館へ行ってきました。

「甲賀の総社」で知られる油日神社へ行きたかった一番の目的は、国指定史跡の「甲賀郡中惣遺跡群」を見て、中世の空気を感じたかったからです。

油日神社は、本殿、拝殿、廻廊といった建造物は重要文化財に指定されていますが、それだけでなく、境内そのものが国の史跡に指定されています。

 

楼門から唐破風がついた堂々とした拝殿が覗く

切妻造で檜皮葺の廻廊と入母屋造で檜皮葺の楼門

何よりも楼門から伸びる廻廊の美しさ、そして明らかに人々が坐したであろう廻廊の床が、いつでも500年以上前の世界へ誘う。

廻廊の柱と柱の間隔がちょうどよく、舞台観覧席のようでした。

恐らくは拝殿を囲い 込む形で、氏子たちが集い、行事を行なってきたのでしょう。

実際に油日神社公式HPの「大宮ごもり」を紹介するページに、現在も使われていることがわかります。

 

靴を脱ぎ、恐れながら上がらせていただく。

吹放しによる開放感からくるものなのか、このアプローチにため息が出ました。

楼門と廻廊が分ける、聖域との境界、そしてそのような場で直会や祭礼を行い、聖俗の境を行き来している空間なのではないでしょうか。

 

腰をかけて楼門、拝殿、本殿、そして門の外を眺める。

本殿、楼門及び廻廊は室町時代、拝殿は桃山時代とのことですが、建造物としての美しさだけでなく、それらが創り出す空間こそが、何にも変え難いものでした。

翼のように広がる廻廊の柱に肩を預け、しばし現代から離れて、中世の香りに抱かれるこの時間がたまらなく心地よい。

 

甲賀歴史民俗資料館で、摩利支天や聖徳太子の本地仏の如意輪観音の懸仏に、「ずずい子」に、大宮ごもりの絵図に夢中になり、油日神社が歩んできた時間、人たちのことなど、その奥行きを考える。

甲賀に住む方から以前、「甲賀は家、血縁を重んじる」と聞いたことがあり、それを垣間見たように思います。

湖北とは違った土地でありながら似ているところもある甲賀について、さらに調べ、足を運び、感じながら考えていきたいと思います。

 

油日神社について

由来

油日神社は、『日本三代実録』によると、元慶元年(877)に「油日神」が従五位下を授かっており、これ以前から存在すると考えられます。

古くは油日岳を神体山としたとされ、山頂には今も岳神社が祀られています。

不思議なことに油日神社は、式内社ではありません。

※式内社とは、延喜5年(927)に完成した延喜式の巻9・10『延喜式神名帳』に記載された神社のこと。

中世になると、武士の崇敬を受け、現在の本殿造営のための奉加を記した明応4年(1495)の「油日御造営御奉加之人数」*には、190にのぼる武士や寺庵からの多くの寄進が見えています。

*甲賀歴史民俗資料館に展示されていて、非常に面白かったです。

戦国時代、上甲賀を中心とした武士は、地域の支配・運営のため同名中や郡中惣を構成し、油日神社はその拠り所となり、「甲賀の総社」と呼ばれました。

【参考:甲賀歴史民俗資料館パンフレット】

詳細情報

油日神社

滋賀県甲賀市甲賀町油日1042

油日神社へお越しの際は、ぜひ甲賀歴史民俗資料館も観覧ください。懸仏、甲賀武士関連文書、ずずい子などが展示されています。

※事前に油日神社へ電話予約が必要です。

詳しくは、油日神社 公式HPからご確認ください。

https://www.aburahijinjya.jp/index.html