新薬師寺の修二会
東大寺二月堂修二会は何度か行き、お松明をみて、局に入って声明を拝聴し、夜明けをみたこともあるが、新薬師寺の修二会は今年はじめてお伺いした。
知人からは「東大寺よりも松明を近くで見れて、声明も近くで聴くことができるし、夜に仏像が拝めるよ」とかねてよりおすすめしていただいていた。
そんな念願の新薬師寺修二会は雨、それも春嵐といったところで冷たい強風が吹き荒れ、例年より遅れて咲いた桜を一晩で散らせてしまいそうなものであった。
日が暮れる頃、幡が吹き飛びそうなほど雨風が吹き荒れ、魔物でも現れるのだろうかと思わせる曇天。
新薬師寺修二会は、本尊の薬師如来にすべての人々の罪を悔いあらため、天下泰平を祈る悔過法要である。
外は荒れ模様でも、それを神仏の力あるいは法力で鎮められることであろう。
扉がひらかれ、神仏が現われるその時を待ち望んだ。
19時になるといよいよ僧侶たちが上堂する。
本堂の正面3つの扉が開かれ、薬師如来と十二神将が姿を現わす。
その姿にうっとりしていると、雅楽の演奏がはじまった。
いよいよ修二会が始まると気が引き締まる。
長さ7mあまりの大松明が10本、籠松明1本が僧侶を先導してゆく。
強風もあって松明をもつ童子さんの表情も険しい。
暗闇に燃える松明の炎が観覧する自分に近づいてくると、徐々に爆ぜる音も聞こえてくる。
雨風に打たれ、冷える体も顔だけ一瞬熱くなる。
風上に松明がいくと風に乗って火の粉がこちらに飛んできて、頬にパチっと当たった。
それに少し嬉しく思うのは、修二会の松明だからだろう。
松明が通った跡には火の粉が蛍のように光り、煙が視野を朧げなるものにし、自分がいる世界と神仏の世界の境界をも溶かし曖昧にしてくれているようにみえた。
本堂内陣に僧侶が着くと雅楽とともに声明がはじまる。まさに神仏習合。
その後、日本中の13700ヵ所の神々の名前が書かれた神名帳が読み上げられ、堂内には全国各地の神々、そして御霊までもが勧請された。
新薬師寺で読み上げられるのは、東大寺二月堂修二会(通称・お水取り)で唱えられるものと同じもの。
その後も続く声明が堂内を包み、経が仏を包む、いや仏が経を纏うようにも思えた。
私は仏像の横顔が好きだが、薬師如来の横顔がかつて拝観したときよりもずっと慈愛みちた伏目をしていた。
堂内の聖域と外界を分けるかのように本堂の外はザーザーと激しい雨が降っていた。
修二会だけでなく法要に参加すると日頃見えている景色の日常と、見えないあるいは見ていない景色の非日常がはっきりと現れる。
いつだって仏像にはほとけが宿っているのだが、法要では仏像がいつも以上にほとけの顔をしているように感じる。
間近で僧侶たちが座す場で拝むとまた表情がちがうのだろうが、私は民衆をみるほとけの顔をした薬師如来をじっくり拝めたことに心満たされたのであった。
※ 新薬師寺修二会については公式HPよりご覧ください
新薬師寺公式HP http://www.shinyakushiji.or.jp/